最高裁判所第三小法廷 昭和26年(れ)754号 判決 1954年8月24日
主文
本件上告を棄却する。
理由
弁護人竹田直平の上告趣意について。
原判決の確定した事実によると、所論京都地方検察庁検事梅林明は、昭和二四年一月二三日に施行された衆議院議員総選挙に候補者として立候補するため、昭和二三年一二月一四日直属の上司たる同庁検事正に対し公務員を辞する旨の申出をしたのであるが、その後病気のため立候補を断念し、それを理由として辞表の撤回方を同検事正に申出た。ところがこの辞表撤回の意思表示は同月二三日大阪高等検察庁検事長を通じて法務総裁官房人事課長宛に進達されたにもかかわらず、僅少の時間的行違のため、辞表撤回の意思表示が所轄機関に到達する直前に、同月二四日附で免官の発令を見たというのである。
当時施行されていた衆議院議員選挙法六七条六項は、衆議院議員との兼職を禁じられている公務員にして「議員候補者タラントスル者公務員タルコトヲ辞スル旨ノ申出ヲ為シタル場合ニ於テ其ノ申出ノ日ヨリ十日以内ニ公務員タルコトヲ辞スルコトヲ得ザルトキハ……其ノ申出ノ日後十日ニ相当スル日ニ公務員タルコトヲ辞シタルモノト看做ス」と規定している。そこで本件の場合にこの規定の適用があるか否かを考えてみると、この条項は元来、衆議院議員との兼職を禁じられている公務員が立候補するために辞職の申出をしても、手続の遅延その他の理由により短時日の内に退職することができず、そのため立候補届出の機を逸したり、選挙運動に支障を来たしたりするというような場合のあることを慮って、このような障碍を予め除去するために設けられたところの、立候補希望者の保護を主たる目的とする規定である。それ故に当人みずから立候補を断念して辞表の撤回方を申出で、しかもその意思表示が所定の一〇日の期間内且つ退職の発令前に本属長官の手許まで進達されていた本件のような場合には、右の条項は適用なきものと解するを相当とする。
論旨は、議員との兼職を禁じられている公務員が在職の侭立候補するときは公益上有害な結果を生ずる惧れがあるので、右の条項はかかる有害な結果を可及的に速かに除去するために設けられた規定であるということを根拠として、退職の申出の日後一〇日に相当する日に退職が確定的に発効し、その出願者が立候補断念の意思を有したか否かによって退職確定の効力は影響を受けない、と主張する。なるほどその公務員が立候補の意思を有する場合には、所論のように一般選挙人や競争相手たる候補者に不当な威力を及ぼし又は自己の当選を得るために所管公務を不当に処理する惧れもあろうけれども、本件のように一〇日の期間満了前に既に立候補を断念して辞表の撤回方を公に申し出た者については、かような惧れを生ずる原因はなくなっているのであるから、このような場合に右の条項が適用されなければならないとする所論は理由がない。
論旨はまた、右の条項は、立候補のため退職を願出た後一〇日以内に退職の発令があったときは、当然にその発令の日に発効することを前提とする規定であるから、梅林検事は免官の発令のあった一二月二四日にその職を失ったものと見るべきであると主張する。しかし後に説明するとおり、公務員の任免の発令はその意思表示が相手方に到達したときにその効果を発生するというのが原則である。右の条項の場合にこの原則の例外を認めなければならない程の理由はない。(右の条項は、辞職の「申出ノ日ヨリ十日以内ニ公務員タルコトヲ辞スルコトヲ得ザルトキハ……」と言っておるだけである。一〇日以内に「辞スルコトヲ得タトキ」その職を失うことはこの条項を俟つまでもなく同義語の繰り返えしに過ぎない程自明の理であるが、「辞スルコトヲ得タトキ」というのは必ずしも「発令のあった日」を意味しない。)しかるに本件においては免官の意思表示は一二月二四日にはまだ梅林検事に到達しなかったものと認められるから、この日に同検事が職を失ったものと主張する論旨は採用し難い。のみならず辞表の撤回のなされた本件の場合には、右の条項の適用なきものと解すべきこと前に述べたとおりであるから、右の条項を根拠とする所論の主張は、なおさら理由がない。
これを要するに、本件梅林検事の退職については、前示選挙法の関係においては辞表の撤回が有効になされた結果、同法六七条六項による退職の効果は発生しなかったものと解するのが相当であり、従って同検事の退職は通常の依願免官手続による退職と見なければならない(同検事は免官の発令前に辞表の撤回を申出で、その意思表示は同月二三日に身分上の本属長官の手許まで進達されていたことは前記のとおりであるが、しかし僅少の時間的行違のため、右意思表示が所轄機関(任免権者)に到達する直前に、同月二四日附で免官の発令を見たものであることも、原判決の確定するところであるから、右免官の発令には、何ら手続上の違法はないものといわなければならない)。そこで右依願免官による退職の効果の発生時期について考えてみると、特定の公務員の任免の如き行政庁の処分については、特別の規定のない限り、意思表示の一般的法理に従い、その意思表示が相手方に到達した時と解するのが相当である。即ち、辞令書の交付その他公の通知によって、相手方が現実にこれを了知し、または相手方の了知し得べき状態におかれた時と解すべきである(原判決がこの点について、退職令書の交付時に限ったことは妥当でない)。論旨は免官の発令が官報に掲載された日に退職の効果を生ずるものと主張するけれども、公務員の任免は法令の公布とは自らその性質を異にするばかりでなく、官報による公示は特定の相手方に対する意思表示とは到底認めることができないのであって、所論は独自の見解にすぎない。
ところで、原判決の確定したところによると、本件免官の発令は昭和二三年一二月二四日附でなされ、同月二九日附官報にその旨を公示されたのであるけれども、梅林検事が免官の発令のあったことを上司たる京都地方検察庁検事正から公に通知され、これを了知したのは昭和二三年一二月三一日であり、更らに免官の辞令書の交付を受けたのは、それ以後のことであるというのであって、それ以前に免官の発令が同検事に到達したという事実は何ら認められていない。して見ると、本件につき公訴の提起のあった同月三〇日には、同検事に対しては免官発令による退職の効果も未だ生じていなかったものと認めざるを得ない。従って同月三〇日梅林検事によってなされた本件公訴の提起は適法であって、これを無効とすべき理由はない。それ故所論旧刑訴四一〇条六号違反並びに憲法三一条違反の主張はその前提を欠き採用することができない。
被告人の上告趣意について。
論旨前段は本件傷害の点につき正当防衛を主張し、詐欺の点につき信用借りであると主張するけれども、いずれも原判決の認定していない事実を前提とするものであるから事実誤認の主張に帰し、適法な上告理由とならない。また、論旨後段起訴無効の主張の理由なきことは、前記竹田弁護人の上告趣意について説明したとおりである。
よって、刑訴施行法二条旧刑訴四四六条により主文のとおり判決する。
この判決は裁判官全員一致の意見である。
裁判官 長谷川太一郎は退官のため合議に関与しない。
(裁判長裁判官 井上 登 裁判官 島 保 裁判官 河村又介)